泣きの文法
先日思いつきで書いた「泣きの文法」を考えてみたいと思います。
「泣きの文法」とは読んだ人を泣かせるための手法とでも言うものでしょうか。
コレコレこうしたら人は泣くっていうものです。
言語学でチョムスキーの生成文法というものがあります。人間は生まれた時から普遍文法という持っていて、言葉を覚えることができるというものです。逆に日常使っている色んな国の言葉を分析していくと普遍文法が見つかるのではないかという研究でもあります。
「泣きの文法」も同じように色んな泣きの話を分析すれば、人を泣かせる法則性というものが見えてこないかというものです。
普遍文法のように生得的なものに納得がいかなくても、経験によって積み重ねられた悲しい記憶というのをあるキッカケで呼び戻すことができるかもしれないと思います。
たとえば自分の場合で言うと、母親を亡くしていますので「お母さん」「死」という文字列だけで悲しくなることができます。
小説などの物語でも、感情を揺り動かす部分をピンポイントで刺激してやれば泣かせることができるかと思います。
(コンピュータに例えると、毎回関数を定義しなくてもシステムコール一発で用が済むみたいな)
ただホントにピンポイントで刺激しても「ふーん、それで?」となるかもしれません。
そこで参考になるテクニックがあります。『ノベルゲームのシナリオ作成技法』という本に紹介されている「萌やし泣き」です。
前半に日常を描いて、後半に不幸にさせるという造りです。
これを自分なりに考えてみました。
まず前半は、こちらからターゲットとなる読者の方へ合わせて共感を得ます。
読者と主人公が一体感持ったころに今度はこちらから読者へ引っ張って泣きスポットへと導きます。
同調、共感、誘導です。営業のテクニックみたいですね。
ちなみに「泣きの文法」の着想は「虐殺の文法」からだったりします。